起源
1875年:
9月3日、フェルディナンド・ポルシェは、ボヘミア地方の町、マッフェルスドルフでこの世に生を受けました。1889年、マッフェルスドルフのグラマースクールを卒業したポルシェは、ライヘンベルクの州立職業訓練校で学んだ後、見習い配管工として父親の会社に就職しました。
1900年:
ローナー・ポルシェと命名された電気自動車が、パリ万国博覧会に出展されました。若き日のフェルディナンドは、ホイールハブエンジンを発明、一躍国際的な注目を集めることになりました。ホイールハブエンジンを搭載する自動車は、ガソリンと電気を燃料とする世界初のハイブリッドでした。また、同年、フェルディナンドは、4WDシステムのレースカーを開発しました。
1906年:
フェルディナンド・ポルシェは、ウィナーノイシュタットに本拠を置くアウストロ・ダイムラーの技術部長に就任しました。フェルディナンドは、31歳の若さでヨーロッパ最大級の自動車会社の全モデルを統括する地位に就きました。
1909年:
フェルディナンド・アントン・エルンスト・ポルシェ(一般には「フェリー」・ポルシェとして知られる)は、9月19日、ウィナーノイシュタットで誕生しました。
1910年:
フェルディナンド・ポルシェの手になるアウストロ・ダイムラーのツーリングカーは、プリンツハインリヒトライアルで3つの勝利を獲得しました。しかも、そのステアリングを握っていたのは、誰あろうフェルディナンドその人でした。
1923年:
シュトゥットガルトのダイムラー自動車会社取締役兼技術部長に就任したフェルディナンドは、伝説のモデル、メルセデス・コンプレッサースポーツカーをデザインしました。その翌年、フェルディナンドの指揮の下で開発された2リッターレースカーがタルガフロリオを制しました。メルセデスベンツSタイプは、1927年以降の国際モータースポーツシーンを席巻しました。
1931年:
4月25日、フェルディナンド・ポルシェは、シュトゥットガルトにエンジン/車両デザインに関するエンジニアリングとコンサルタント業務を行う自身の事務所を開設しました。ヴァンダラー、ツュンダップ、NSUなどの大メーカー向けに車両を開発したほか、ポルシェ・トーションバー・サスペンションをはじめとするディテールソリューションを開発、新たなトレンドを築きました。
1933年:
また、アウトウニオン向けには、16気筒ミッドシップのグランプリマシンを開発しています。NSUのコンパクトカー(タイプ32)を想定したリヤエンジン車両コンセプトは、のちにフォルクスワーゲン・ビートルとして実現しました。
1934年:
Dr. Ing. h.c. F.
1935年:
フェルディナンド・アレクサンダー・ポルシェは、フェリーの長男として、12月11日にシュトゥットガルトで誕生しました。
1936年:
タイプ60の実戦テストと並行して、フェルディナンド・ポルシェの指揮の下、「KdFワーゲン」と改名されたフォルクスワーゲン用生産設備が建設されました。
1939年:
ツッフェンハウゼンのポルシェ本拠では、タイプ64の名の下、3種類のレーシングクーペが開発されました。耐久レース専用に設計・製造された「ベルリン・ローマ・ワーゲン」は、のちのポルシェ・スポーツカーの始祖として知られています。
1944年:
戦火により、ポルシェKGエンジニアリング・オフィスはオーストリアのカリンティア地方の町、グミュントに疎開せざるを得ない状況に追い込まれました。
1946年:
フェルディナンドの息子、フェリーの指揮の下、イタリアの企業家ピエロ・ドゥジオの依頼に基づいて、4WDシステムのグランプリマシン─「チシタリア」(タイプ360)─の開発が始まりました。
1948年:
ポルシェの名を冠する初のスポーツカー、356が誕生しました。「第1号車」は、6月にロードカーとしての認証を取得しました。わずか1ヶ月後、軽量ミッドシップエンジンロードスターがインスブルック・シュタットレンネンにおいて初のクラス優勝を記録しました。