ポルシェが自動車の設計を始めてから75年(4)シュトゥットガルトの設計事務所からアウトウニオン(Auto Union)のレーシングカーや VW「ビートル」が送り出される(2)
1933年春、フェルディナンド・ポルシェはザクセンのアウトウニオンから、車重750kgの新しいカテゴリーのレギュレーションに準じた16気筒のレーシングカー開発の依頼を受けます。契約が成立するとすぐに、ポルシェチームはチーフエンジニア、カール・ラーベの陣頭指揮の下、ミッドシップエンジン車として設計されたアウトウニオンのPレーシングカー(このPはPorscheのP)のために作業を開始しました。すでに1934年1月にはシェークダウンが行われ、1934年のレースシーズンには早々に3つの世界記録を達成、数々のラリーに加えて3つの国際グランプリ・レースで優勝しています。ベルント・ローゼマイヤー、ハンス・シュトゥック、タツィオ・ヌヴォラーリなどが乗ったこのアウトウニオンのレーシングカーは1934年から1939年まで絶え間なく改良され続け、第二次世界大戦前の最も成功したレーシングカーのひとつに数えられることとなったのです。これによってこの車の持つミッドシップエンジンという技術コンセプトは、その後のスポーツカーの方向性を示すことになり、今日でもF1で採用されています。
スポーツカーの開発と平行して、ポルシェ設計事務所は1933年にNSU社から価格の手ごろな小型車の設計を依頼され、同じく集中的に取り組んでいます。このような考えは経済恐慌を背景に生まれたもので、ベラ・バレニやハンス・レドヴィンカなどの他の自動車設計技師も当時同じく小型車設計に取り組んでいました。フェルディナンド・ポルシェが小型車タイプ32の設計を始めた時、これは彼が設計した7番目の小型車でした。この車両タイプではトーションバーサスペンションを採用し、空冷水平対向4気筒エンジンをリアに積んだいくつかのプロトタイプが作られており、後のフォルクスワーゲン・ビートルを髣髴とさせる明確な類似性をすでに見て取ることができます。
フェルディナンド・ポルシェの小型車コンセプトの出現にとって決定的であったのは彼が 1934年1月17日に帝国交通省で発表した「ドイツ国民車の製造に関する趣意書」でした。発表直後の1934年6月22日にポルシェ博士は 「ドイツ帝国自動車産業連盟 (RDA)」 から公式に国民車(フォルクスワーゲン)プロトタイプの設計および製造の依頼を受け、1935年にはシュトゥットガルターノルデンにあるポルシェ邸のガレージで組み立てられました。ところがこの新しい車のさらなる開発とテストは、自社モデルにとっての手強い競争相手を恐れたドイツ自動車業界の抵抗にあってしまうのです。
2006/4/14